抜粋転載 “ 人類よ早く泥沼から上がろう 五井昌久 ( 前 ) “『 白光 』誌より ( 本文縦書き )
私の誕生を祝って下さる、会員の方々が、聖ヶ丘道場に充ち溢れ、折柄の青天温暖の神の祝福と共に、平和の気が四方にみなぎっていた、十一月二十二日が過ぎてしまって、またたくまに、新しい年を迎える。
私たちはこの新しい年への第一歩を、どんな気持ちで踏み出していったらよいのであろう。世界人類完全平和達成の道は、一体どのようにして得られるのであろう。瞬々刻々の平和な気持は、誰しも得られるのであるけれども、神の大調和のみ心の中に自らがすっぽり入り、その光明波動を絶え間なく人々に放射し得る人間になり得るための、私たちが一瞬といえども欠かしてはならぬ行は一体どのような行であろう。
その行がすなわち世界平和の祈りなのである。世界平和の祈り心なくして、この業生の現われとみえる地球界に、人類の平和を築きあげることは、如何なる宗教といえどもなし得ないことなのである。
それぞれの宗教宗派のいずれも、その教は神仏のみ心を現わしているものであり、人々の心の糧になるものに違いあるまい。しかし今日の地球世界の様相は、ただ単に個人の心の慰めや、小乗的な安心立命では、如何ともなしがたい、重大な危機に立っているのである。
私の常に申し上げる、個人人類同時成道という、そういう姿になってゆかねば、個人も人類も多くの苦難を積み重ねてゆかねばならなくなる。人類が苦しみ喘えいでいる時、個人の自己だけが安心立命していると、平気でいられるものではない。人類の苦悩を自らの心に感じぬような人は、とても安心立命の境地になり得る人ではない。そんな人はとても高い境地には昇り得ない。
人類の苦悩を自らの肌身に感じながら、しかも、安心立命の境地に昇り得るような人が多く出現することを神は待ち望んでおられる。世界平和の祈りは、そういう人を自然につくり得る大乗的な祈りなのである。
世界人類が平和でありますように
こういう当然であり、なんでもなさそうにみえる言葉の奥底に、神と人間との一体感が大光明波動となってひびきわたっているのである。人間に対する神の愛と、人間が完全に向って上昇してゆく悲願とが、この易しい祈り言葉の中で、全く一つになって輝やいているのである。
私たちはこの新しい年への第一歩を、どんな気持ちで踏み出していったらよいのであろう。世界人類完全平和達成の道は、一体どのようにして得られるのであろう。瞬々刻々の平和な気持は、誰しも得られるのであるけれども、神の大調和のみ心の中に自らがすっぽり入り、その光明波動を絶え間なく人々に放射し得る人間になり得るための、私たちが一瞬といえども欠かしてはならぬ行は一体どのような行であろう。
その行がすなわち世界平和の祈りなのである。世界平和の祈り心なくして、この業生の現われとみえる地球界に、人類の平和を築きあげることは、如何なる宗教といえどもなし得ないことなのである。
それぞれの宗教宗派のいずれも、その教は神仏のみ心を現わしているものであり、人々の心の糧になるものに違いあるまい。しかし今日の地球世界の様相は、ただ単に個人の心の慰めや、小乗的な安心立命では、如何ともなしがたい、重大な危機に立っているのである。
私の常に申し上げる、個人人類同時成道という、そういう姿になってゆかねば、個人も人類も多くの苦難を積み重ねてゆかねばならなくなる。人類が苦しみ喘えいでいる時、個人の自己だけが安心立命していると、平気でいられるものではない。人類の苦悩を自らの心に感じぬような人は、とても安心立命の境地になり得る人ではない。そんな人はとても高い境地には昇り得ない。
人類の苦悩を自らの肌身に感じながら、しかも、安心立命の境地に昇り得るような人が多く出現することを神は待ち望んでおられる。世界平和の祈りは、そういう人を自然につくり得る大乗的な祈りなのである。
世界人類が平和でありますように
こういう当然であり、なんでもなさそうにみえる言葉の奥底に、神と人間との一体感が大光明波動となってひびきわたっているのである。人間に対する神の愛と、人間が完全に向って上昇してゆく悲願とが、この易しい祈り言葉の中で、全く一つになって輝やいているのである。